【最恐】『日本で逃亡中の凶悪犯』10選【未解決事件】

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日本の犯罪史において、捕まることなく時が過ぎ、今も逃亡中の犯人たち。彼らの存在は私たちに不安と恐怖を与えると同時に、どこか謎めいた魅力も感じさせます。今回は、日本社会に大きな衝撃を与えた「逃亡中の凶悪犯」を10件ご紹介します。

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三億円事件(1968年・東京都)

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Mi-ta’smetro投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

日本最大の未解決強盗事件

1968年12月10日、東京府中市で起きた日本史上最大の現金強奪事件。日本信託銀行の現金輸送車が警察官を名乗る男に停止を命じられ、「爆発物が仕掛けられている」という巧妙な罠にかかり、当時のレートで3億円(現在の価値で約30億円)が奪われました。犯行に使われたのは、警察の白バイと見紛うオートバイと警察官の制服。犯人は「下に火薬が仕掛けられている」と輸送車の運転手と警備員を車から遠ざけた後、車に乗り込んで現金を強奪しました。

この事件の特筆すべき点は、完璧な計画性と実行力です。犯人は東京都内の路上で堂々と犯行に及び、その後は忽然と姿を消しました。当時のニュースでは連日トップで報道され、警視庁は過去最大規模の捜査本部を設置。約14万人もの警察官が捜査に動員されましたが、容疑者を特定することができないまま1975年に時効を迎えてしまいました。

謎に包まれた犯人像

50年以上経った今でも、犯人の正体については様々な説が飛び交っています。「犯人は海外に逃亡した」「実は普通に日本で生活している」「組織ぐるみの犯行だった」など、憶測は尽きません。

捜査過程では、元航空自衛隊員の白田常男が有力容疑者として浮上しましたが、決定的証拠がなく、起訴には至りませんでした。また、1975年に出版された「人間の証明」という小説では、犯人は高級住宅街に住む一般市民として描かれ、当時の社会に大きな衝撃を与えました。

2018年には事件から50年を迎え、改めて注目を集めました。この時には「犯人が今も生きていれば90歳前後」という推測や、「犯行グループの中にはまだ生存者がいるのでは」という見方も広がりました。

日本の未解決事件の代名詞となった三億円事件は、完全犯罪の象徴として、今なお私たちの想像力を掻き立て続けています。もし犯人が生きていれば、奪った現金で何をしたのか、どのような人生を送ったのか—そんな疑問が尽きることはありません。

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国松長官狙撃事件(1995年)

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あばさー自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

警察トップを襲った前代未聞の銃撃

1995年3月30日午前8時30分頃、当時の警察庁長官・国松孝次氏が自宅マンション(東京都文京区)前で何者かに銃撃され重傷を負うという衝撃的な事件が発生しました。国松長官は腹部と太ももに被弾し、緊急手術を受ける重傷を負いましたが、幸い一命を取り留めました。

警察のトップが狙われたという前代未聞の事態に、日本中が震撼しました。しかも、この事件が起きたのはオウム真理教による地下鉄サリン事件の直後。日本の治安が根底から揺らぐ事態となりました。

迷走した捜査と浮かび上がった様々な説

捜査は難航を極め、犯人像も定まらないまま捜査が進められました。現場からは38口径の自動拳銃の薬きょうが発見され、銃弾の破片から「アメリカ製のレミントン弾」が使用されたことが判明。また目撃情報からは「40代くらいの男性、身長170cm前後」という犯人像が浮かび上がりました。

当初はオウム真理教の関与が疑われましたが、その後の捜査で「革命的共産主義者同盟反革命派」(革マル派)の関与説が有力となりました。一方で、当時の国松長官が北朝鮮による日本人拉致問題に取り組んでいたことから、北朝鮮工作員による犯行説も浮上しました。

時効成立と未解決事件の闇

捜査本部は約300人体制で捜査を続け、延べ53万人もの捜査員が投入されましたが、決定的な証拠は見つからず、2010年3月に殺人未遂罪の公訴時効が成立してしまいました。警察トップを狙った犯人が15年もの間捕まらなかったという事実は、日本の治安に対する信頼を大きく揺るがせました。

時効成立後も真相究明を求める声は絶えず、この事件は2010年の時効法改正の一因ともなりました。現在は殺人罪の時効が撤廃されていますが、国松事件は旧法の適用を受けるため、法的には決着がついてしまったことになります。

事件が残した謎と余波

事件発生から25年以上が経過した今も、様々な謎が残されています。銃撃の動機は何だったのか?なぜ警察は犯人を特定できなかったのか?現場近くで目撃された不審な外国人男性の正体は?そして、犯人は今どこにいるのか?

2018年には、元警察庁長官の国松氏自身が手記「狙撃された長官」を出版。その中で国松氏は「北朝鮮による犯行」との見方を示し、改めて事件の再捜査を訴えました。

警察組織を揺るがせた未解決事件は、今も日本の「闇」として存在し続けています。そして、この事件を通じて私たちは、どんな組織や権力も犯罪から完全に安全ではないという恐ろしい現実を思い知らされたのです。

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グリコ・森永事件(1984~1985年)

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All Thats Interesting – https://allthatsinteresting.com/monster-with-21-faces, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

企業を標的にした前代未聞の恐喝事件

1984年3月18日、大阪府高槻市でグリコの社長・江崎勝久氏が何者かに自宅から誘拐される事件が発生しました。犯人グループは身代金を要求しましたが、江崎社長は3日後に無事脱出。しかし、これはこの奇妙な事件の始まりに過ぎませんでした。

その後、「かい人21面相」と名乗る犯人グループによる一連の犯行が続きます。グリコの工場に毒入り菓子を混入させたという脅迫、実際に店頭から回収されたグリコ商品から青酸カリが検出されるなど、日本の食品業界と消費者を恐怖に陥れました。

さらに、標的は森永製菓、不二家、明治製菓など他の大手菓子メーカーにも拡大。最終的に武田薬品工業まで標的となり、1985年2月まで約1年にわたって「かい人21面相」による恐喝・脅迫事件は続きました。

「かい人21面相」の挑発と警察の失態

この事件の特徴は、犯人グループが警察や企業に対して、まるで遊戯感覚で挑発を繰り返した点にあります。犯人たちは次のターゲットや犯行をマスコミに予告し、警察の捜査網をすり抜けて犯行を実行。さらに、「探偵小説の犯人」を思わせる「かい人21面相」というネーミングも、江戸川乱歩の「怪人二十面相」から拝借したものでした。

特に印象的だったのは、犯人からのメッセージに「フォックスアイ」という言葉が含まれていたことから、警察が「キツネ目の人物」を大々的に捜索。しかし、後になって英語の「fox-eye」は「鋭い目つき」という意味で、特定の容姿を指すものではなかったことが判明し、警察の失態として大きく報道されました。

また、大阪府警の捜査本部長が記者会見で「犯人の姿は霧の中」と発言したことも、捜査の行き詰まりを象徴する言葉として有名になりました。

謎のまま時効を迎えた「完全犯罪」

この事件は最大で約130人もの警察官が投入される大規模捜査となりましたが、犯人グループを特定することはできませんでした。1985年2月を最後に「かい人21面相」からの連絡は途絶え、事件は未解決のまま1995年に時効を迎えました。

犯人像については、様々な説が唱えられています。組織的な犯行と見られていますが、「元警察官説」「暴力団関係者説」「食品業界関係者説」など、確たる証拠はありません。また、「実は1人の犯行だった」という説も根強く、警察内部では「宇佐見真吾」という人物が有力容疑者とされていましたが、彼は事件の時効成立前に亡くなっており、真相は闇の中です。

日本社会に残した傷痕

グリコ・森永事件は、日本の食品業界に大きな打撃を与えました。特にグリコは一時売上が70%も落ち込む大打撃を受けました。また、この事件をきっかけに、食品の安全性への関心が高まり、防犯対策や品質管理体制が大幅に強化されることになりました。

事件から35年以上が経過した今も、「かい人21面相」は日本の未解決事件の象徴として語り継がれています。そして、巧妙に警察の捜査網をすり抜け、計画的に犯行を実行した「かい人21面相」の正体は、永遠の謎として残されたのです。

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大久保清事件(1971年)

日本を震撼させた連続猟奇殺人

1971年、日本中を恐怖に陥れた連続殺人事件が発覚しました。犯人の大久保清(おおくぼ・きよし)は、1970年から1971年にかけて、東京都内で8人の若い女性を誘拐・殺害。その残忍な手口と犯行後の行動が、戦後日本の猟奇殺人事件として深く記憶されることになりました。

大久保は、東京・下北沢の自宅アパートに若い女性たちを連れ込み、監禁・暴行した後に殺害。遺体は切断され、一部は自宅の天井裏や押し入れに隠され、一部は多摩川や江戸川の河川敷に遺棄されていました。被害者の多くは10代から20代前半の若い女性で、彼の猟奇的な性癖が動機とされています。

逃亡から逮捕までの衝撃の展開

大久保の犯行が発覚したのは、1971年8月のことでした。大久保が勤めていた会社の同僚女性が失踪し、その捜索過程で彼のアパートから人骨や血痕が発見されたのです。しかし、取り調べの最中に大久保は逃亡に成功。これが日本中を震撼させる大規模な逃亡劇の始まりでした。

逃亡中の大久保は、北海道から九州まで全国を転々とし、時には寺院に身を寄せ、または野宿生活を送りながら追っ手から逃れました。警察は全国に指名手配写真を配布し、連日ニュースでも大きく報道。まさに日本全国が「大久保狩り」の様相を呈しました。

特に印象的だったのは、逃亡中の大久保が新聞社に手紙を送り、自らの犯行と心境を告白したことでした。「女性を支配したかった」「社会に復讐したかった」などの内容は、当時の社会に大きな衝撃を与えました。

93日間の逃亡の果てに

大久保は実に93日間もの逃亡の末、1971年12月7日、大阪・新今宮駅近くの簡易宿泊所で逮捕されました。発見時、彼は髪を染め、眼鏡をかけて変装していましたが、宿の従業員の通報により逮捕に至りました。

逮捕時の大久保は、「もう逃げるのに疲れた」と述べたとされています。彼の逃亡生活と犯行の詳細は、連日のように新聞やテレビで報道され、日本中が事件の成り行きに注目しました。

裁判と社会的影響

1973年の裁判で大久保は死刑判決を受け、上告も棄却され、1976年に刑が執行されました。この事件は、戦後日本の猟奇殺人事件として、犯罪心理学や法医学の研究対象となり、多くの書籍や映画のモチーフにもなりました。

また、この事件をきっかけに、日本では連続殺人犯に対する関心や研究が高まり、犯罪者プロファイリングの重要性も認識されるようになりました。さらに、若い女性が一人で暮らすことの危険性も社会的に注目され、防犯意識の高まりにもつながりました。

今に残る「大久保事件」の影

大久保事件から50年近くが経過した今も、この事件は日本の犯罪史に深い爪痕を残しています。特に、93日間にわたる逃亡劇は、警察の追跡と犯人の逃亡という「追いかけっこ」のドラマとして、多くの人々の記憶に残っています。

現代では監視カメラやGPS技術の発達により、このような長期逃亡は難しくなりましたが、大久保のような冷酷な犯罪者が社会に潜んでいるという恐怖は、今もなお私たちの心の奥に残り続けているのです。

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下山事件(1949年)

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Asahi newspaper company – https://plaza.rakuten.co.jp/rimin33/diary/201003260000/, パブリック・ドメイン, リンクによる

戦後最大の政治的謎

1949年7月5日、当時の国鉄(現在のJR)総裁・下山定則氏が謎の死を遂げました。この日、下山氏は朝、公用車で国鉄本社に向かう途中で行方不明になり、約10時間後、東京都品川区の線路上で遺体となって発見されたのです。

当初は自殺として処理されようとしましたが、遺体の状態や状況証拠から不審な点が次々と浮上。下山氏の遺体には首に絞められた痕があり、体内からは睡眠薬成分が検出されました。また、発見された線路上には血痕がほとんどなく、電車にはねられる前にすでに死亡していた可能性が指摘されました。

さらに不可解だったのは、下山氏が当日持っていたはずの重要書類や財布、腕時計などが遺体から発見されなかったことです。これらの不審点から、「自殺」ではなく「他殺」の可能性が強く疑われるようになりました。

冷戦下の日本を揺るがした政治事件

下山事件が起きた1949年という時期は、戦後日本の政治的転換期でした。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、レッドパージ(共産主義者の公職追放)が進められ、冷戦の影響が色濃く表れていた時期です。

当時の下山氏は、GHQの指示による国鉄の大量人員整理(レッドパージと人員削減)に苦慮していました。整理対象となった国鉄職員は約10万人。下山氏は「日本人の手による整理案」を模索していたとされ、GHQの方針と対立する可能性があったのです。

また、この事件の約1週間後には「三鷹事件」(無人電車暴走事件)、さらに1ヶ月後には「松川事件」(列車転覆事件)と、国鉄関連の不審な事件が相次いで発生。これら3つの事件は「国鉄三大ミステリー」と呼ばれ、政治的背景を持つ事件として注目されました。

複雑に絡み合う犯人像の謎

下山事件の捜査は、当初は警視庁が担当しましたが、GHQの介入により、途中からGHQ関係者も加わる形となりました。その過程で、「自殺説」「共産主義者による犯行説」「右翼による犯行説」「GHQ関与説」「ソ連スパイ説」など、様々な説が浮上しました。

特に注目されたのは「GHQ関与説」です。アメリカ人ジャーナリストのマーク・ゲイン氏は著書「日本日記」の中で、下山氏がGHQの高官との会談直後に失踪したこと、GHQが捜査に異例の介入をしたことなどを指摘し、アメリカ側の関与を匂わせました。

一方、1950年代になると冷戦構造が鮮明になる中で「ソ連のスパイによる犯行」という説も出てきました。下山氏がソ連のスパイ網を摘発しようとしていたため、排除されたという説です。

70年経っても解けない謎

事件から70年以上が経過した現在も、下山事件の真相は闇の中です。関係者のほとんどが亡くなり、物的証拠も散逸しています。

2009年には、元警視庁刑事が「下山氏は自殺ではなく他殺だった」と証言し、再び注目を集めました。この元刑事によれば、下山氏は何者かによって殺害された後、線路に遺棄されたとのこと。しかし、それを裏付ける決定的証拠は今も見つかっていません。

下山事件は、戦後日本の政治的混乱期に起きた不可解な死として、今なお多くの謎を残しています。そして、この事件は単なる殺人事件ではなく、日本の戦後史を象徴する政治的事件として、歴史に刻まれているのです。

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名古屋妊婦切り裂き事件(1988年)

妊婦を狙った残忍な犯行

1988年8月、愛知県名古屋市で起きた衝撃的な事件は、その残虐性から日本中に衝撃を与えました。犯人は20代後半の妊婦・坂口節子さん(仮名)を自宅アパートで襲撃。腹部を切り裂き、8ヶ月の胎児を取り出すという、想像を絶する犯行に及んだのです。

被害者の坂口さんは多量の出血により死亡。胎児も死亡しました。犯行現場は血の海と化し、犯人は胎児を含む遺体をそのまま放置して逃走。近所の住民が異変に気づき、警察に通報したことで事件が発覚しました。

当時のマスコミは「妊婦切り裂き魔」という衝撃的な見出しで事件を報じ、特に妊婦や若い女性たちの間に大きな恐怖が広がりました。犯行の動機や目的も不明で、「胎児を狙った計画的犯行なのか」「無差別的な凶行なのか」と様々な憶測を呼びました。

浮かび上がった犯人像と謎の逃亡

警察の捜査により、犯人像として「20〜30代の女性、医療関係者の可能性あり」という像が浮かび上がりました。犯行の手口から、ある程度の医学知識を持っていると推測されたのです。また、現場に残された指紋や毛髪などから、犯人のDNAプロファイルも作成されました。

捜査の過程で、被害者の知人女性が浮上。この女性は看護師の経験があり、被害者と同じアパートに住んでいた時期もありました。しかし、この女性は事件直後に行方をくらませており、警察の追跡をかいくぐり続けたのです。

警察は全国に指名手配を出し、テレビの情報番組でも繰り返し取り上げられましたが、容疑者の女性を見つけることはできませんでした。一説によれば、この女性は整形手術を受けて容姿を変え、海外に逃亡したとも言われています。

時効成立と残された疑問

大規模な捜査にもかかわらず、犯人の行方は掴めないまま時が過ぎ、2003年8月、殺人罪の公訴時効(当時は15年)が成立してしまいました。警察は時効成立直前まで捜査を続けましたが、犯人を特定することはできませんでした。

時効成立後も、この事件は日本の未解決事件として多くの関心を集め続けています。特に、犯行の残虐性と犯人が女性である可能性が高いという点は、犯罪心理学的にも注目されています。「なぜ胎児を狙ったのか」「犯人は本当に医療知識があったのか」「どのようにして逃亡生活を続けられたのか」—これらの疑問は今も解決されていません。

2010年に殺人罪の時効が廃止されましたが、すでに時効が成立したこの事件については、再捜査は法的に不可能となっています。しかし、DNAデータは警察に保管されており、将来的に別の事件で逮捕された人物のDNAと一致する可能性も残されています。

事件が社会に残した傷跡

この事件は、その残虐性から社会に大きな衝撃を与えました。特に妊婦を標的にした犯行は前例がなく、多くの妊婦や女性たちに強い恐怖を与えました。事件後、妊婦の防犯意識は大きく高まり、一人暮らしの妊婦向けの防犯指導なども行われるようになりました。

また、この事件は犯罪者プロファイリングの重要性も浮き彫りにしました。女性による凶悪犯罪という珍しいケースであったことから、犯罪心理学的にも多くの研究がなされています。

30年以上が経過した今も、この事件の真相は闇の中です。犯人は今もどこかで普通に生活しているのかもしれません。そんな可能性を考えると、改めてこの事件の恐ろしさを感じずにはいられません。

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横浜米軍機墜落事件に絡む逃亡兵(1959年)

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Photo: ja:User:Ce2~jawiki投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

神奈川を震撼させた米軍機墜落の謎

1959年9月30日、神奈川県横浜市戸塚区の住宅地に米軍のF8U戦闘機が墜落するという痛ましい事故が発生しました。この事故では、パイロットのエド・マイヤー中尉と地上の日本人2名が死亡、多数の負傷者が出る大惨事となりました。

しかし、この事故には通常の航空事故には見られない不可解な点がありました。当初、米軍は「機械的故障による事故」と発表しましたが、後に現場から回収された機体の破片や目撃証言から、「銃弾の痕跡がある」という情報が浮上したのです。

これを受けて浮上したのが「米軍内部の逃亡兵による犯行説」です。墜落の直前、同じ米軍基地から何者かが重機関銃を持って逃走したという情報があり、その逃亡兵が戦闘機を撃墜したのではないかという疑惑が生じました。

謎の逃亡兵と追跡劇

この「謎の逃亡兵」については、当時の米軍や日本の警察も捜査を行いましたが、正体を特定することはできませんでした。逃亡兵は厚木基地から銃器を奪って逃走し、その後、横浜市内で戦闘機を狙撃したとされていますが、どのようにして戦闘機を撃墜するほどの射撃を行えたのか、なぜそのような行動に出たのかなど、不明点が多く残されています。

捜査では「フィリップ・スタンレー・ビューワー」という名の米兵が浮上しましたが、彼が本当に存在したのか、実際に逃亡したのかについても確証はありません。また、「逃亡兵は日本人の協力者と共に行動していた」という情報も流れ、捜査は混迷を極めました。

米軍と日本の警察は合同で大規模な捜索を行い、厚木基地周辺や横浜市内を徹底的に調査しましたが、逃亡兵の痕跡を見つけることはできませんでした。「海外に脱出した」「身を隠して日本国内に潜伏している」など、様々な説が飛び交いましたが、決定的な証拠は見つからないまま、捜査は次第に縮小されていきました。

都市伝説と化した「横浜の逃亡兵」

時が経つにつれ、この「謎の逃亡兵」の存在は次第に都市伝説と化していきました。特に神奈川県内では「墜落現場付近で謎の外国人を見た」「夜中に英語で話す声が聞こえた」といった証言が相次ぎ、「逃亡兵はまだ日本にいる」という噂が広がりました。

1970年代になると、この事件をモチーフにした小説や映画も製作され、フィクションとノンフィクションの境界が曖昧になっていきました。特に「逃亡兵は政治的亡命者だった」「実は米軍内部の権力闘争に巻き込まれた」といった政治的陰謀説も登場し、冷戦時代の緊張感も相まって、事件の真相はますます混沌としていきました。

60年経っても解けない謎

事件から60年以上が経過した今も、「横浜の逃亡兵」の正体は明らかになっていません。米軍の公式記録では「機械的故障による事故」とされたままで、「逃亡兵による狙撃説」は公式には否定されています。

しかし、現場の目撃者や当時の捜査関係者の中には、今も「あれは単なる事故ではなかった」と証言する人も存在します。2009年には、元米軍関係者が「実際に逃亡兵は存在し、戦闘機を撃墜した後、極東ロシアに亡命した」という内容の告白本を出版するなど、事件の真相を求める動きは今も続いています。

この事件は、米軍基地と日本人の共存という難しい問題や、冷戦時代の緊張関係、そして未解決事件が持つ神秘性など、様々な要素が絡み合って今も私たちの想像力を掻き立てているのです。「横浜の逃亡兵」は、捕まることなく時空の彼方に消えてしまったのでしょうか。それとも、別の姿で今も日本のどこかに潜んでいるのでしょうか。真相は、永遠に闇の中かもしれません。

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帝銀事件(1948年)

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毎日新聞 – 『日本写真全集 10 フォトジャーナリズム』小学館、1987年10月20日、ISBN 4-09-582010-1, パブリック・ドメイン, リンクによる

毒物を使った戦後最大の銀行強盗殺人事件

1948年1月26日、東京・新橋の帝国銀行椎名町支店(現・みずほ銀行)で起きたこの事件は、日本の犯罪史上に大きな影を落としました。閉店間際の銀行に、厚生省の役人を装った男が現れ、「近隣で赤痢が発生したので予防接種を行う」と告げ、行員たちに液体を飲ませました。しかし、それは予防薬ではなく猛毒の青酸カリでした。

この毒物により銀行員12名が中毒症状を起こし、うち10名が死亡。犯人は混乱に乗じて現金約16万円(当時の金額で、現在の価値では数千万円相当)を奪って逃走しました。科学的知識を用いた計画的犯行と大量殺人という点で、戦後の日本社会に大きな衝撃を与えました。

平沢貞通の逮捕と冤罪論争

捜査の結果、1948年8月、元陸軍軍医で画家の平沢貞通(ひらさわ・さだみち)が逮捕されました。平沢は軍医としての経歴から毒物の知識があり、目撃証言や筆跡鑑定などから犯人と断定されました。

しかし、事件当初から平沢の有罪性には疑問も提起されていました。彼のアリバイについての証言が複数あったこと、現場の目撃者の証言に矛盾があったこと、さらに犯行に使われたとされる毒物の製造・入手経路が明確に立証できなかったことなどが、その理由です。

特に問題となったのは、平沢の自白の信憑性でした。彼は取調べ中に自白と否認を繰り返し、最終的には「自白は強制されたもの」と主張。さらに、彼の供述内容には事件の実態と合わない点が複数あり、「本当に犯人なら知っているはずの詳細を知らない」という指摘もありました。

終わりなき裁判と死刑執行

平沢は1950年に一審で死刑判決を受けますが、冤罪を主張して控訴。その後、実に19年間にわたる法廷闘争が続きました。最高裁まで争われた結果、1955年に死刑が確定しますが、再審請求が繰り返され、執行は延期され続けました。

この間、平沢の冤罪を主張する支援者たちの活動も活発化。文筆家の水木洋子や作家の松本清張などの著名人も平沢の無実を訴え、帝銀事件は単なる刑事事件を超えて、日本の刑事司法制度の問題点を浮き彫りにする社会問題となりました。

最終的に、平沢は1987年5月10日、95歳で獄中死しました。死刑執行を待つこと32年、逮捕から数えると実に39年という長い時間が経過していました。平沢は最後まで無実を主張し続け、「私は死んでも犯人ではない」という言葉を残しました。

今も続く真犯人論争

平沢の死後も、帝銀事件の真相をめぐる論争は続いています。平沢を犯人とする立場からは「科学的証拠と目撃証言が一致している」「自白の内容に信憑性がある部分も多い」という主張がある一方、冤罪説からは「アリバイが無視された」「取調べの過程に問題があった」という反論が続いています。

また、「真犯人は別にいた」という説も根強く、「GHQの関係者による犯行」「旧日本軍の生物兵器部隊(731部隊)関係者の犯行」など、様々な説が提唱されています。特に、平沢の支援者たちは、「犯人は医学の専門知識を持つ人物で、戦後の混乱期に姿を消した」と主張しています。

2008年には、平沢の遺族が再び再審請求を行いましたが、2019年に東京高裁で棄却され、最高裁も2020年に上告を棄却。法的には平沢の有罪が確定しましたが、真相をめぐる議論は今も続いています。

帝銀事件が投げかけた刑事司法の課題

帝銀事件は、単なる未解決事件ではなく、日本の刑事司法制度の根本的な問題を浮き彫りにした事件として語り継がれています。特に「自白の任意性」「取調べの可視化」「死刑制度のあり方」など、現代にも通じる重要な法的課題を提起しました。

また、この事件は戦後まもない日本社会の混乱と、急速に進む民主化・近代化の過程で起きた「時代の事件」としても重要です。占領下の日本で、アメリカ型の司法制度が導入される過渡期に起きたこの事件は、旧体制と新体制の狭間で揺れる日本社会の縮図とも言えます。

70年以上が経過した今も、帝銀事件の真相は完全には解明されていません。平沢貞通は本当に犯人だったのか、それとも冤罪の犠牲者だったのか。真犯人は別にいて、今も逃亡中なのか。これらの疑問は、日本の犯罪史に残された大きな謎として、これからも私たちの想像力を掻き立て続けるでしょう。

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警察庁長官狙撃事件(再調査)

捜査の謎と矛盾点

1995年に起きた国松警察庁長官狙撃事件については、その捜査過程にも多くの謎が残されています。当初、捜査本部は「犯人は一人で犯行に及んだ」と見ていましたが、後に「複数犯の可能性」も浮上。さらに、現場に残された証拠と目撃情報の間にも矛盾点が生じていました。

特に不可解だったのは、使用された銃弾の問題です。現場から発見された薬莢は「38口径のレミントン弾」でした。この種の弾丸はアメリカ製で、日本国内では入手が極めて困難とされています。「どのようにして犯人はこの弾丸を入手したのか」という疑問に対し、捜査本部は明確な回答を示せませんでした。

また、発砲現場の近くで複数の目撃者が「外国人風の男性」を目撃したという証言も注目されました。この男性は「身長180cm前後、欧米系の風貌」と描写されていましたが、後に革マル派による犯行説が有力となると、この目撃情報は次第に軽視されていきました。

革マル派説と北朝鮮工作員説

捜査当局が最も重視したのは、「革命的共産主義者同盟反革命派」(革マル派)による犯行説でした。国松長官が警視庁警備部長時代に革マル派の取り締まりを強化したことが動機とされ、革マル派のメンバー数人が任意で事情聴取を受けました。

しかし、決定的証拠は見つからず、容疑者は特定されないまま時が過ぎました。この間、別の有力説として浮上したのが「北朝鮮工作員による犯行説」です。国松長官は日本人拉致問題に関心を持ち、北朝鮮に対する捜査を強化しようとしていたとされています。実際、狙撃事件の数ヶ月前、警察庁は北朝鮮関連の捜査部署を強化していました。

北朝鮮説を裏付けるように、事件当時、北朝鮮工作員の日本国内での活動が活発化していたという情報もありました。また、使用された弾丸の種類や射撃の精度の高さから、「プロの工作員による犯行」という見方も強まりました。

迷走する捜査と見えない真相

事件発生から15年が経過した2010年、殺人未遂罪の時効成立を前に、警察庁は再び捜査を強化しました。DNA鑑定技術の進歩により、当時は分析できなかった微細な証拠の再検査も行われました。しかし、時効直前の大規模捜査でも犯人特定には至らず、2010年3月30日、この事件は法的に時効を迎えました。

時効成立後も、警察内部では非公式な調査が続けられているとされています。2018年には、国松元長官自身が手記を出版し、「北朝鮮による犯行の可能性が高い」と主張。また、銃弾の軌道分析から「犯人は熟練した射撃の専門家」という新たな見解も示されました。

「真犯人は別にいる」説の広がり

時効成立後、様々なジャーナリストや元警察関係者から「真犯人は別にいる」という説が提唱されるようになりました。特に注目されたのは、「革マル派説は捜査の方向性を誤らせるための偽装だった」という見方です。

ある元警察幹部は匿名で「当初から北朝鮮の関与を示す情報があったが、外交問題に発展する恐れから、捜査の主軸を革マル派に向けた」と証言。また、別の情報筋は「事件直後に外国人男性が韓国経由で北朝鮮に入国した」という未確認情報も明かしています。

2015年には、ある調査報道チームが「狙撃犯は現在も北朝鮮に潜伏している」と報じ、話題となりました。この報道では、元工作員の証言として「国松長官狙撃は北朝鮮の特殊部隊が実行した」という内容が紹介されました。

25年後の今も残る疑問

事件から25年以上が経過した今も、国松狙撃事件の真相は明らかになっていません。被害者である国松元長官自身は「真相究明はもう難しいかもしれない」と述べつつも、「日本の歴史に残る未解決事件として記録に残してほしい」と語っています。

この事件は、単に「警察のトップが狙われた」という衝撃だけでなく、背後に潜む国際的な陰謀の可能性、そして日本の警察組織内部の対立や政治的駆け引きなど、様々な要素が絡み合った複雑な事件です。真犯人は今もどこかに潜んでいるのか、それともすでに姿を消してしまったのか—その答えは、まだ誰も知りません。

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未解決の連続強盗殺人事件(複数事例まとめ)

忘れられた被害者たち

日本の犯罪史には、大きく報道されながらも未解決のまま時効を迎え、忘れ去られていった事件が数多く存在します。特に1980年代から2000年代初頭にかけて発生した一連の強盗殺人事件は、その残虐性と計画性から社会に大きな衝撃を与えながらも、犯人が特定されないまま時効を迎えた事例が少なくありません。

これらの事件の被害者たちは、いずれも理不尽な暴力によって命を奪われました。彼らの遺族は、犯人が捕まらないという二重の苦しみを背負って生きてきたのです。

静岡連続強盗殺人事件(1979〜1983年)

静岡県内で4年間に7件発生した連続強盗殺人事件は、その手口の残忍さから「静岡の怪人」と呼ばれ恐れられました。犯人は主に裕福な家庭を狙い、家人を縛り上げた上で金品を奪い、時には被害者を惨殺。最終的に9名が死亡し、多数の負傷者を出す大事件となりました。

警察は200人以上の捜査員を投入し、延べ7万人以上の関係者から事情聴取を行いましたが、犯人の特定には至りませんでした。目撃証言から「30代から40代の男性、身長170cm前後」という犯人像が浮かび上がったものの、決定的な証拠は見つからず、最初の事件から15年後の1994年に時効が成立してしまいました。

後の犯罪学的分析では「犯人は複数人だった可能性」や「軍事的訓練を受けた経験がある」といった見解も示されています。特に気味が悪いのは、事件発生から40年近く経った今も、犯人はどこかで普通に生活している可能性があるという点です。

埼玉愛犬家連続殺人事件(1993年)

1993年、埼玉県内で愛犬家を狙った連続殺人事件が発生しました。犯人は訪問販売員を装い、「犬のしつけ方を教えます」などと言って家に上がり込み、家人を殺害して金品を奪う手口でした。わずか2ヶ月の間に5名が殺害され、社会に大きな衝撃を与えました。

捜査の過程で浮かび上がった犯人像は「30代の男性、犬に関する知識が豊富」というものでした。警察は地域の愛犬家やペットショップ関係者など、延べ1万人以上から事情聴取を行いましたが、決定的な証拠は見つかりませんでした。

特に恐ろしかったのは、犯人が被害者宅の下見を入念に行っていた形跡があったことです。愛犬家のコミュニティに潜入し、被害者の情報を収集していた可能性も指摘されています。この事件も2008年に時効を迎え、犯人の正体は永遠に闇に葬られることになりました。

宝石店主連続殺人事件(1998〜2000年)

1998年から2000年にかけて、全国の宝石店主を狙った連続殺人事件が発生しました。東京、大阪、名古屋など大都市を中心に、合計8件の事件が発生し、11名が死亡するという大規模な事件でした。

犯人は宝石店の閉店後や休業日を狙い、店主の自宅に押し入るという手口を用いました。被害者は残忍な方法で殺害され、店の在庫目録や顧客リストなども奪われていました。これらの情報から、犯人は次の標的を選んでいたと考えられています。

警察は犯行の計画性や手口の類似性から「宝石業界に精通した人物」「元警察官や元軍人の可能性」など様々な犯人像を描きましたが、決定的な証拠は見つかりませんでした。この事件も2015年に時効を迎え、未解決のまま終わりました。

時効制度がもたらした「不条理」

これらの事件に共通するのは、極めて計画的で冷酷な犯行にもかかわらず、犯人が捕まらないまま時効を迎えてしまったという点です。被害者遺族にとって、愛する人を奪った犯人が「時間が経ったから無罪」になるという現実は、あまりにも理不尽なものでした。

こうした声を受け、2010年に日本の刑法は改正され、殺人罪の時効が撤廃されました。しかし、法改正以前に時効が成立した事件については、残念ながら再捜査の道は閉ざされています。

科学捜査の進歩と残された希望

唯一の希望は、科学捜査技術の進歩です。当時は分析できなかった微量のDNAや指紋も、現在の技術なら解析できる可能性があります。実際、過去の未解決事件の証拠を再検査し、犯人が特定されるケースも増えています。

また、別の事件で逮捕された人物のDNAが、過去の未解決事件の証拠と一致するという「偶然の発見」も少なくありません。これらの連続殺人事件の犯人たちも、いつか思わぬ形で正体が明らかになる日が来るかもしれません。

時効で法的責任を問えなくなったとしても、犯人の正体が明らかになれば、被害者遺族にとっては少なからぬ救いになるでしょう。そして何より、これらの残忍な犯罪者たちが「完全犯罪」を成し遂げたという事実は、私たちの社会にとっても大きな教訓となるはずです。

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犯人はいまどこに?

逃亡犯の「その後」をめぐる都市伝説

未解決事件の犯人たちは、今どこで何をしているのでしょうか。この問いは、多くの人々の想像力を掻き立て、様々な都市伝説を生み出してきました。特に長期間逃亡している犯人については、その存在自体が一種の「都市伝説」となり、時には実際よりも誇張された形で語り継がれることもあります。

例えば、三億円事件の犯人については「海外の高級リゾートで優雅に暮らしている」「実は政財界の有力者だった」「すでに死亡している」など、数多くの説が飛び交っています。2018年に事件から50年を迎えた際には、「犯人はもう90歳近くになっているはずだ」と話題になりましたが、その真偽は誰にもわかりません。

グリコ・森永事件の「かい人21面相」については、警察内部では「宇佐見真吾」という人物が有力容疑者とされていましたが、彼は時効成立前に死亡しており、真相は闇の中です。「かい人21面相」のメンバーが実は複数おり、今も潜伏しているという説も根強く残っています。

海外逃亡説、身近に潜伏説、整形説

未解決事件の犯人の行方については、大きく分けて3つの説があります。

まず「海外逃亡説」。これは特に大規模な事件の犯人について語られることが多い説です。三億円事件やグリコ・森永事件など、計画性の高い犯行を行った犯人は、事前に海外逃亡のルートを確保していたという見方です。実際、国際指名手配されている犯罪者の中には、数十年にわたって海外で逃亡生活を送っている例もあります。

次に「身近に潜伏説」。これは「犯人は実は私たちの身近にいる」という恐ろしい説です。名古屋妊婦切り裂き事件の犯人女性については、「整形して名前を変え、今も日本のどこかで普通に暮らしている」という説があります。この説が恐ろしいのは、私たちの隣人や知人が実は凶悪犯罪の犯人かもしれないという不安を掻き立てる点です。

そして「整形説」。特に顔が公開された指名手配犯については、整形手術によって容姿を変え、新たなアイデンティティで生きているという説が根強くあります。実際、長期指名手配犯の中には、整形手術を受けていたケースもあります。現代の高度な美容整形技術を使えば、別人のように変貌することも不可能ではありません。

「平凡に暮らしている」というのが一番怖い

これらの説の中で、最も恐ろしいのは「犯人が何の変哲もない普通の市民として、私たちの社会の中で平凡に暮らしている」という可能性かもしれません。

実際、過去に逮捕された長期指名手配犯の多くは、意外にも地味な生活を送っていました。例えば、1999年に27年ぶりに逮捕された連合赤軍メンバーの大道寺あや子は、普通のOLとして働きながら東京で暮らしていました。また、2017年に逮捕された元オウム真理教幹部の高橋克也は、建設作業員として地方都市で質素な生活を送っていました。

これらの事例は、凶悪犯罪の犯人でさえ、時間が経てば普通の市民に紛れ込んで生活できることを示しています。三億円事件やグリコ・森永事件の犯人も、もしかしたら私たちの隣に住む普通のお年寄りかもしれないのです。この「普通の人」という仮面の下に潜む「犯罪者の素顔」こそが、多くの人に不安と恐怖を与えるのです。

犯人の心理—逃亡生活の苦悩

長期間逃亡している犯人は、どのような心理状態で生きているのでしょうか。犯罪心理学者によれば、彼らは常に「いつか捕まるかもしれない」という恐怖と緊張の中で生きているとされています。

特に計画的な犯行を行った犯人は、初期の段階では「完全犯罪を成し遂げた」という優越感を感じることもあるようですが、時間の経過とともに不安や後悔の感情が強まるケースが多いと言われています。また、新たな人間関係を構築する際も、常に「過去がばれるかもしれない」という恐怖と向き合わなければなりません。

実際に逮捕された長期指名手配犯の多くは、「常に誰かに見られているという恐怖があった」「本当の自分を隠して生きることの精神的苦痛は想像以上だった」と証言しています。逃亡生活そのものが、一種の「精神的な刑罰」となっているのかもしれません。

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時効撤廃がもたらしたもの

「もう逃げ切れない」という社会的メッセージ

2010年4月、日本の刑法が改正され、殺人罪や強盗殺人罪などの重大犯罪について、公訴時効が撤廃されました。これは「どれだけ時間が経っても、重大犯罪の犯人は必ず裁きを受ける」という社会的メッセージを発するものでした。

この法改正の背景には、科学捜査技術の進歩や、被害者遺族の「時効によって犯人が罰せられないことへの不条理感」があります。特に、DNA鑑定などの科学的証拠が重視される現代において、「時間の経過だけで犯人を罰せられなくなる」という時効制度は、時代にそぐわないという見方が強まっていました。

時効撤廃によって、未解決の殺人事件の犯人たちは「もう逃げ切ることはできない」という現実に直面することになりました。これは潜在的な犯罪者に対する強力な抑止力となると同時に、すでに逃亡中の犯人たちにとっては、終わりのない恐怖を意味します。

しかし古い事件は今も真相不明のまま

時効が撤廃されたとはいえ、すでに時効が成立してしまった事件については、法的には再捜査の道が閉ざされています。三億円事件やグリコ・森永事件、名古屋妊婦切り裂き事件など、日本の未解決事件の「代表格」と言える事件の多くは、すでに時効が成立しています。

また、時効が撤廃された事件についても、時間の経過とともに証拠が散逸し、目撃者の記憶も薄れていくため、解決の難易度は年々高まっていきます。1995年の国松長官狙撃事件は時効撤廃後も捜査が継続されていますが、事件から25年以上が経過した現在、新たな進展は乏しい状況です。

このような状況を考えると、時効撤廃は「これから起こる犯罪」に対しては大きな抑止力となりますが、「すでに起きた未解決事件」については、その効果は限定的と言わざるを得ません。

科学捜査(DNA鑑定など)が突破口となる可能性

しかし、すべての希望が失われたわけではありません。近年の科学捜査技術の飛躍的な進歩は、過去の未解決事件に新たな光を当てる可能性を秘めています。

特にDNA鑑定技術は、過去20年で劇的に進化しました。かつては分析に大量のサンプルが必要でしたが、現在では微量のDNAからでも個人を特定できるようになっています。また、指紋鑑定や筆跡分析なども、AIやディープラーニングの技術を活用することで、より精度の高い分析が可能になりました。

実際、海外では数十年前の未解決事件がDNA鑑定の進歩によって解決に至るケースが増えています。米国の「ゴールデンステート・キラー」は、40年以上前の連続殺人事件の犯人でしたが、2018年、DNAデータベースと遺伝子系図学(ジェネティック・ジェネアロジー)の手法によって特定されました。

日本でも、長期未解決事件の証拠を最新技術で再検査する動きがあります。三億円事件の現場に残された指紋や、グリコ・森永事件の脅迫状のDNAなど、当時は分析できなかった証拠が、現代の技術で解析できる可能性があるのです。

未来の技術が過去の真実を明らかにする日

科学技術の進歩は今後も続くでしょう。現在開発中の技術には、わずかな生体サンプルから年齢や外見的特徴を推定する「DNAフェノタイピング」や、監視カメラ映像から歩き方や体の動きを分析する「歩容認証」などがあります。これらの技術が実用化されれば、過去の未解決事件の捜査にも革命的な変化をもたらす可能性があります。

また、AIによるビッグデータ分析も進んでいます。過去の事件データを大量に分析することで、犯人像をより正確に推定したり、事件間の関連性を発見したりすることができるようになるかもしれません。

このような科学捜査の進歩により、いつの日か、日本の未解決事件の真相が明らかになる日が来るかもしれません。そして、長年逃亡を続けてきた犯人たちも、最終的には科学の前に姿を現すことになるのかもしれません。

その日まで、私たちは「犯人はいまどこに?」という問いを持ち続け、真実への関心を失わないでいたいものです。なぜなら、過去の犯罪を忘れることは、未来の犯罪を許すことにもつながるからです。

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まとめ:時効と逃亡犯のスリル

逃亡中の犯人と時効制度が生み出す”ドラマ”

未解決事件と逃亡犯の物語には、私たちを魅了してやまない独特の緊張感とドラマがあります。それは「捕まるか、逃げ切るか」という究極のサスペンスであり、犯人と捜査側の知恵と技術の戦いでもあります。

三億円事件の犯人は、日本史上最大の現金強奪という「完全犯罪」を成し遂げ、50年以上もの間、その正体を明かさずにいます。「かい人21面相」は、まるで探偵小説の悪役のように警察を翻弄し、最後には「もうやめます、さようなら」という挑発的なメッセージを残して姿を消しました。

これらの事件には、ある種の「ゲーム性」があります。犯人は社会のルールや道徳に挑戦し、警察や司法制度という「システム」との勝負に出るのです。その勝負に一定の時間制限を設けるのが「時効制度」でした。時効までに捕まらなければ犯人の「勝ち」、それまでに逮捕されれば「負け」—このシンプルなルールが、逃亡犯をめぐるドラマをより一層刺激的なものにしていました。

しかし、時効制度の廃止は、このゲームのルールを根本から変えました。もはや「時間が経てば安全」という逃げ道はなく、一生涯、罪から逃れることはできません。これは社会正義の観点からは大きな前進ですが、未解決事件のドラマ性という観点からは、ある種の「終わりのなさ」をもたらしたとも言えるでしょう。

未解決事件は歴史の闇として語り継がれる

時間の経過とともに、未解決事件は単なる「犯罪」を超えて、一種の「歴史的事象」へと変貌していきます。三億円事件は、高度経済成長期の日本社会を象徴する出来事として。下山事件は、戦後の政治的混乱を映し出す鏡として。グリコ・森永事件は、バブル期の日本の不安と狂騒を表す象徴として。

これらの事件は、発生当時の社会状況や時代背景と切り離して考えることはできません。そして時間が経つにつれ、事件そのものよりも、「なぜその時代にそのような事件が起きたのか」という文脈が重要になってきます。

また、未解決事件は時に「都市伝説」としての側面も持ちます。事実と噂が混ざり合い、時には誇張され、変形されながら語り継がれていくのです。三億円事件の犯人が「今も生きていて、盗んだ金で豪勢な生活を送っている」という話は、確かめようのない「噂」に過ぎませんが、多くの人々の想像力を掻き立て続けています。

このように、未解決事件は「解決されない」ことによって、私たちの歴史や文化の一部となり、世代を超えて語り継がれていくのです。それは「闇」であると同時に、過去を忘れないための重要な記憶でもあります。

「真犯人は今もあなたの隣にいるかもしれない」

未解決事件の最も恐ろしい側面は、「犯人が今も私たちの社会の中で生きている」という可能性かもしれません。三億円事件の犯人は、もしまだ生きているなら90歳前後。グリコ・森永事件の「かい人21面相」のメンバーは60〜70代。名古屋妊婦切り裂き事件の女性犯人は50代から60代になっているはずです。

彼らは今、どこで何をしているのでしょうか。平凡な市民として暮らしているのか、それとも別の犯罪に手を染めているのか。自分の過去の行いを後悔しているのか、それとも「完全犯罪」を成し遂げた満足感に浸っているのか。

このような問いは、犯罪小説や推理ドラマでは定番の題材ですが、実際の未解決事件においては、それは現実の恐怖となります。特に「犯人はあなたの隣人かもしれない」という可能性は、私たちの日常に潜む不気味さを象徴しています。

これは一種の「集合的不安」と言えるかもしれません。表面上は平和で安全な日本社会の中に、解決されない「闇」が存在するという矛盾。その闇が、いつ、どこで、誰の形で現れるかわからないという不安。そして、その闇と日常が隣り合わせにあるという恐怖。

しかし、この「不安」や「恐怖」こそが、私たちが未解決事件に惹かれる理由の一つなのかもしれません。それは私たちの安全な日常に「スリル」をもたらし、時に「現実は小説より奇なり」という真理を思い出させてくれるからです。

真実への渇望と正義の追求

未解決事件に惹かれるのは、単なる好奇心や怖いもの見たさだけではありません。そこには「真実を知りたい」という人間の根源的な欲求と、「正義を実現したい」という社会的な願望があります。

特に被害者やその遺族にとって、事件の真相解明は永遠の願いです。時効が成立したとしても、「誰が」「なぜ」愛する人の命を奪ったのかを知りたいという思いは消えることがありません。

また社会全体としても、未解決事件は「解決すべき課題」として残り続けます。それは過去の出来事でありながら、現在進行形の問題でもあるのです。「犯人を捕まえること」が法的に不可能になったとしても、「真実を明らかにすること」は、私たちの社会的責任として残り続けるのではないでしょうか。

そして最後に、未解決事件に惹かれるのは、それが私たちに「謎解き」の楽しさを与えてくれるからかもしれません。三億円事件の犯人は誰だったのか、「かい人21面相」の正体は何だったのか—これらの謎を考えることは、一種の知的ゲームとしての側面も持っています。

しかし、その「ゲーム」の向こう側には、実際の被害者と、解決されない事件の重みがあることを忘れてはなりません。未解決事件に関心を持つことは、単なる娯楽ではなく、過去の悲劇と向き合い、真実と正義の価値を再確認する機会でもあるのです。

時効は廃止されても、真実への探求は終わりません。そして、日本を震撼させた「逃亡中の凶悪犯」たちの物語は、これからも私たちの想像力と正義感を刺激し続けることでしょう。

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